捨吉の一生

昔々ある所に、捨吉という男がおりました。

貧しい村の貧しい家の五男に生まれた捨吉は、六つの頃、凍える冬のある晩に山へと連れて行かれました。
不作の秋で食べ物はなく、山で食べ物を探してきなさい、と言い残されたのです。
捨吉は懸命に冬枯れた山の中を歩きました。
しかし食べられる物などありません。
空腹に耐えかねた捨吉は枯れ草をはみ、泥水をすすり、その日ばかりを生き延びる術を探して歩き続けました。

ある日、捨吉は山賊のねぐらを見つけました。
山賊たちは夜な夜な近くの山村や旅籠を襲っては、米や金を奪い、ひとの命を奪って生きていました。

「ひとから奪えば生きられる」

捨吉ははじめてそんな生き方があることを知りました。
その日から捨吉は山賊の子分になりました。
幸か不幸か、体の小さな捨吉は人よりも身のこなしがとてもよく、音もなく民家に忍び込んでは誰にも悟られることなく物を奪う術に長けていたのです。
捨吉の能力に一目おいた山賊達は捨吉にいろんな盗みをさせました。
米を奪い、金を奪い、ひとの命をも奪わせました。
捨吉が青年に成長する頃には、己の仲間を従えて盗みを働くようになりました。
かつて己が山賊の頭から学び取ったように、良くできる者を側に従え、仕事を為損なった者には凄惨な仕打ちを与え……捨吉は長らくそうして生きていました。

ある夜のことです。
捨吉は若い夫婦が住む家に忍び込みました。
眠っている若夫婦の首を小刀でかききって声もなく絶命させると、捨吉は箪笥を物色しはじめました。
すると赤子のむずがる声がしたのです。
捨吉は小刀を構えなおしました。
両脇から若夫婦に守られるように腕に包まれていた赤子は、まだ両親が息絶えたことなど知りません。
きっと寝返りをうとうとしたのでしょう。
赤子は短い手足を動かして声を上げていました。
ぎらり、と捨吉が持つ小刀が光ります。
その刃に映る捨吉の顔はまるで鬼のような顔でした。
まがまがしく口元をゆがめ、捨吉は小刀を振り上げます。
赤子の無垢な瞳が醜くいびつに嘲笑う捨吉の顔を見つめました。
澄んだ水面のような目が、黒くよどんだ捨吉の目と合います。
捨吉はこの目に映る自分の顔をもう何回も見続けていました。
それどころか、見飽きてさえいました。
慈悲もなく小刀が振り降ろされようとした……その時でした。

赤子は、にこりと微笑んだのです。

ぴたりと捨吉は小刀を振り降ろす手を止めました。
赤子はなおも微笑み、それどころか自分を抱き上げてくれというように笑って手足を伸ばしてくるのです。
捨吉は小刀を取り落とし、震え出しました。
赤子は己のことを両親と勘違いしているのだと、頭では理解していました。
けれども、無垢に微笑むその顔が捨吉にはとても恐ろしく見えたのです。

捨吉は逃げました。
初めて涙を流して逃げました。

捨吉は転がり込むようにねぐらに帰ってきました。
尋常じゃない捨吉の姿に、仲間達は捨吉の仕事が失敗したことを悟ります。
がたがた震えてうずくまる捨吉を、しかし仲間は理由を聞くこともせず、冷ややかな目で見下ろしていました。
やがて仲間の一人が尋ねました。
役人に見つかったのか?
おまえは一人で逃げてきたのか?
いつの間にか仲間の手にはそれぞれの得物が握られています。
捨吉は仲間達の顔を見ました。
それは今まで自分が手にかけてきたもの達の目に映った、歪な己の顔でした。
皆一様に禍々しく、血走った目で捨吉を蔑むように見ています。
裏切り者、と誰かが罵りました。
途端に、堰を切ったように皆口々に罵声を浴びせます。
かつての自分も、こうして仕事をしくじった仲間を蔑み、手にかけてきました。
これは掟のようなものでした。
そうでもしないと、自分達が生き延びられないからです。
失敗した仲間を後生大事に抱えていられるほど、この集団は絆の強いものではありませんでした。
仕事をしくじった者が悪い。
かつての捨吉もそうやって仲間を蔑み、手にかけてきたのです。
捨吉は一層震えおののきました。
今まで意識したことなど無かった「死」が、今目の前にあることを。

捨吉は逃げました。
全ての怨嗟を振り払うように、泣き叫んで逃げました。

野を越え、山を越え。
追っ手を振り切った捨吉は身も心もぼろぼろでした。
疲労で体は少しも動かないというのに、眠ることなどできませんでした。
目を閉じれば浮かび上がるのは、今まで己が手にかけてきたもの達の顔です。
年寄り、女、子供問わず、己の仕事のためならば躊躇うことなく切り捨てました。
そうすることで自分が生きられるからです。
自分が生きていくために、必要なことだったのです。
だから仕事を失敗した仲間がいれば、足を引っ張られることがないよう、その仲間も手にかけました。
大所帯で山賊稼業は務まりません。
使えない人間は即座に切り捨てる。
それが捨吉の人生の中で得た人生の掟でした。
山賊として生きて行くには、それもまた仕方のないことです。

そうやって何度言い訳をしたのでしょうか。

捨吉は気づいてしまったのです。
生きていくためには仕方のないことだと歪に嘲笑っていた感情が、とても醜いものだということを。
いっそこの感情に狂ったまま死ねたらどんなに良かったかとさえ思えるほどに。
全てが後悔でしかありませんでした。
あの赤子が自分の姿を見て恐怖に泣き叫んでいてくれたら、自分はなにも感じることなく赤子を手にかけることができたでしょう。
いつか仕事にしくじるときが来て、仲間に殺される日が来ても、ここまで生き延びようともしなかったでしょう。
あの笑顔の何が恐ろしいと感じたのか。
今となってはもう分からないのです。

捨吉はふらりと立ち上がると、もたれ掛かっていた枯れ木の枝に草で編んだ縄を吊り下げました。
頭一つくぐれる大きさの輪に編んだそれを首にかけて、捨吉は幹にもたれます。
このまま倒れ込めば、首が括られて、ようやく楽になることができる。
捨吉は静かに目を閉じました。
瞼の裏では変わらずうろんな目で絶命した者達の顔が浮かび上がってきます。
……だというのに。
腰を屈めようとした捨吉の脳裏に閃いたのは、あの赤子の無垢な笑顔でした。
捨吉はぎくりと体を強ばらせます。
そして動けなくなるのです。
涙が一粒、二粒と冷たく頬を滴っていきます。
あの赤子の笑顔は自らで死を選ぶことを許さなかったのです。

捨吉は逃げました。
抱えられない後悔を背負いさまようのが運命の亡者のように。

さすらい、さすらい。
それはちらちらと雪が舞い降る冬の午後でした。
捨吉は人里離れた山奥に一軒の家を見つけました。
茅葺き屋根はほぼ半分崩れ、土壁もはがれ落ちた寂れたぼろ屋です。
誰も住んでいないように見えるその家の軒下には鶏の家族が土をついばみ闊歩していました。
立て付けが悪いのか、半開きになった縁側の引き戸よりそっと中を伺うと、やはり人の気配はありません。
すぐに止む気配もなく降り続ける雪に、捨吉はそのぼろ屋で一服させてもらおうと縁側に腰を下ろしました。
すると、ことりと奥から物音が聞こえて捨吉は驚き腰を浮かせました。
奥に見える襖の隙間から鼠の鳴く声と、敷かれた布団のようなものが見えます。
やはり人が居たのだろうか。
捨吉は物音を立てずそっと襖の前に立ちました。
隙間からそっと中を窺い見ると……
白骨と化した人が布団に横たわっていました。
おそらく誰にも看取られることなく亡くなったのでしょう。
捨吉は声もなく佇み、そっと、手を合わせました。
今まで自分が手にかけてきた者達に対して一度も手を合わせたことなど無いのに皮肉なものだと、捨吉は手を合わせてから思いました。
けれども、手を合わさずには居られなかったのです。
今まで人の死後のことなども考えたことなどありませんでした。
誰にも手を合わされずに死んだこの死人を、捨吉は哀れだと思いました。
そして、捨吉はこう思ったのです。
自分はこういう風に死にたい、と。
自ら命を絶つことが許されないのならば、せめて、誰の人生に触ることなく、誰にも省みられることなく、独りで死んでいきたい。
捨吉は庭先に穴を掘り、死人を埋めて弔いました。送る花も線香もなく、ただ静かに手を合わせます。

その日から捨吉はそのあばら屋に住むようになりました。
枯れ野のほうき草が群れる畑の手入れをし、粗末ながらも雨露位はしのげるように崩れた屋根を葺き代えます。
古い茅を焼いた灰はやせた畑の肥やしに。
畝を作って幾日もすると、どこで混じったのか粟の新芽がほっそりと生えてきました。
茅に紛れて生えてくるキビや粟の新芽を残すようにちくちくと間引く日が続きました。
畑に向かう道沿いに小さな花が芽吹く頃、捨吉はその花を摘み、庭先の名のない墓石に添えてそっと手を合わせました。
梅雨に時雨れる時は雨漏りのする屋根からぽたりと割れ瓶に雨粒が落ちる音を聞きます。
わずかな晴れ間に里山に入って雨宿りをする雉を捕らえ、自生するつるいもを採り、暑くなってくれば里山の清水を汲んで畑を潤しました。
灼くような日差しが幾分か和らぐ頃、わずかばかりのキビと粟を収穫し、底冷えする日が来れば囲炉裏に火を焚き寒さを凌ぐ。
人里離れた一軒家に訪れるものは誰もなく、捨吉を知るのは軒先に居を構えている鶏の一家のみ。
しかし鶏の家族たちは、そんな捨吉に構うことなく毎日土を啄んでいます。
この鶏の家族はきっと捨吉が誰にも看取られることなくあの世へ旅立とうとも、自らの営みを変えることはないのでしょう。
我関せずで生きていく鶏達を見守ることで、捨吉は心穏やかに過ごしていたのです。

世代が変わり、年老いて死んでいった鶏を捨吉は丁重に庭先へ葬りました。
なんとも馬鹿なことをしていると思います。
せっかくの糧をわざわざ庭に埋めるだなんて。
けれども、そうすることで償いになると思いたかったのでしょう。
今まで自分が生きていくために身勝手に命を奪われた者達への、せめてもの償いになれば、と。種は違えども自分より後に生まれ、先に死んでいくもの達を弔う度に思うのです。
縁側の柱に凭れ、遺された若い鶏達は変わらず土を啄み闊歩しています。その逞しさにどこかしら安堵をしつつ。
空虚な思いに重なるのは、やはりあの時に残した赤子のことでした。
遺された赤子がその後どうなったのか、捨吉には分かりません。けれどそれを追求する勇気もありません。

……まだ、時々夢に見るのです。
あの無垢な赤子が己に無邪気に微笑む姿を。
いっそ俺を殺してくれと跳ね起きて慟哭した日がいくつ有ったでしょうか。
けれど自害はできません。
それこそ赦さなかったのです。
何度その首に縄を巻いたことでしょう。
何度その胸に小刀を突き立てようとしたでしょう。
そのたびに脳裏に翻るのです。
あの赤子の笑顔が蘇るのです。
とても、とても鮮やかに。

生きることは苦しいです。
貧しいながらも生きる術を持ってなお、死の安寧を想います。
幼い頃に山へ捨てられた時、なぜ自分は生き延びてしまったのでしょうか。
裏切り者と罵られ刃を向けられた時、なぜ自分は逃げ出してまで生き延びたのでしょうか。
自分で自分を殺せないくせに。
なぜ他人に殺される機会を、自ら捨ててしまったのでしょうか。
遺される悲しさも知ってなお、なぜ自分はまだ生き長らえて……そして死を恐れているのでしょうか。

そして歳月は流れていきます。

それは冬を過ぎてまもなくの、暖かくなり始めた頃でしたでしょうか。
生まれて間もない雛がよちよちと歩く姿を寝間からぼうっと見ていた昼下がり。
ふと、庭先に妙な気配を感じて捨吉はじっと草陰を見つめていました。

がさりっ。

大きく青草を揺らして飛び出してきたのは、熊とみまごうほど大きく、燃えるような紅い毛並みをした四つ目の異形の獣でした。
鋭い牙がずらりと並んだあぎとから泡と化した唾を吐き、鶏めがけて突っ込んでいきます。
突然現れた化け物に鶏たちは皆金切り声をあげて逃げ出しました。
腹を空かせたこの醜い化け物は鶏の家族を皆食い散らかしてしまうでしょう。
それだけでは飽きたらず、家主である捨吉もきっと食い殺してしまうでしょう。
数刻もせず訪れるであろう惨劇を、しかし、捨吉はほっとした心地で思い馳せました。

「おぅい、そこの化けもん」

後少しで若い雌鳥に牙が届くその寸前、捨吉はよっこらしょと立ち上がって縁側へと歩み寄りました。
家主に気づいた化け物は鬣を膨らませ、低い姿勢で牙を剥きます。
べちゃりと泡の固まった唾が足下に飛びました。
……ああ、まるで昔の自分のようだなぁ。
奪うのに必死で、牙を向き、人を殺して生きながらえる醜い化け物。
まるでこの化け物は自分そのものじゃないか。

ああ。ああ、そうか。

「はらぁ、減ってるのかい」

なんて粋な計らいなんだろうねぇ。
醜い自分を生き写しにした化け物に汚く食い殺される。
地獄の神さんはようやく俺を死なせてくれるのか。

「わけぇ奴らは見逃してやってくれ。あいつらはガキ育てにゃならんからな。
狙うなら年寄りを狙いな」

こんな口約束、きっとこの化けもんは守りやしないだろうが、あの家族を守って死ねるなら本望だ。
穏やかな顔で言う捨吉をぽかんと見ていた化け物は、しかし、ぐぅと鳴った腹の音に我に返り大きく牙をむき出しました。

そうだ。それでいい。

ゆっくりと目を伏せた、刹那。
つんざくように響いたのは鶏の鳴き声でした。
近くで動けなくなっていた老いた鶏を化け物は襲ったのです。
喉笛にかぶりついた化け物は再び庭先の茂みへ翻り羽ごとむしゃぶりついていました。
……いっそ汚く食い散らかしてくれれば、身勝手に嫌うこともできたでしょうに。

「こりゃまいったな、きれいさっぱり、骨すらねぇよ」

僅かに残ったのは小さな羽が二、三枚。その清々しさにいっそ笑いがこみ上げました。

その獣はただ必死に、生きていたのです。

この獣は不思議なことに人の言葉を理解し、話をすることができました。
一息ついて去ろうとする獣に、捨吉はしばらく留まらないかと声を掛けると、なんとも不思議そうに目を丸め、牙を見せて獣は言いました。

「お前はよくわからん奴だな!なぜ俺を恐れないんだ!俺は異形の獣だぞ!」
「それがどうした。ただ余分に二つ目が付いた、ごんたくれの犬じゃねぇか」

捨吉はごんたくれのごん、と獣を名付けて腹を抱えて大笑いしました。
……もしかしたら、初めてかもしれません。
山賊だった時、仲間と成果を分けて宴に興じた時ですら、これほどまでに腹を抱えて大笑いすることはありませんでした。

こうして、捨吉はこの人語を解す奇妙な獣としばらく共に暮らすことにしました。
とはいっても、こちらから寄り添うことはせず、向こうからも寄り添うことはなく。
いつか気が変わったら離れていくような、そんなつきあいになるだろうと思っていました。

夏の気配が近づく初夏。
朝早く畑に赴く捨吉を、獣は畑の側の低木から遠巻きに眺めていました。
捨吉を見守るのではありません。ここがたまたまちょうどいい日差し避けだったのです。
土を起こし、雑草を摘み……そんな捨吉の背後では、蒔いたばかりの種を啄みにくる野鳥が闊歩しています。
せっかく蒔いた種も半分以上は食べられてしまうでしょう。
捨吉は気づいているのかいないのか、時折大きく伸びをして、動きに驚き飛び立っていく野鳥達を見送っています。
獣は大きく鼻を鳴らすと、のそりと立ち上がって畑の真ん中で横になりました。
おや、と顔を上げる捨吉に獣はそっぽをむいて居眠りを始めました。
たまたま、日向ぼっこをしたくなっただけなのです。
それからは、野鳥達は畑の種を啄みにくることはなくなりました。
そのおかげでしょうか、いつもの年よりも新芽が多く生えました。
畑をあなぼこだらけにしていた兎も獣を恐れてか、新芽を食い荒らすこともありませんでした。
すくすくと芽は大きくなっていきます。
日差しがいっそう強くなる頃には青青と茂ったキビのすずやかな葉擦れが涼をさそいました。
軒下の陰で涼をとる獣の隣に、捨吉はそっと井戸で冷えた瓜を置いてやりました。
たまたま、ひとつ余ったのです。
沢に水を飲みに行くのも面倒になっていた獣は、冷えた瓜を食んで喉を潤し、涼を楽しみました。
刺すような日差しがやわらかくなる頃、収穫したキビを湯がいて捨吉は鶏の家族にキビを分けてやりました。
嬉しそうにキビを啄む鶏の家族の側には地べたに伏せて雛を見守る獣の姿。放られるキビを追いかけて獣の頭を山登りしていく雛を、獣は少し困った顔をして見守っていました。

……いつのまに。
こんなに近くなってしまったのでしょうか。
出会った頃は庭先で牙を向いていた獣は、今や足下の縁の下で自分と同じく鶏の家族を見守っている。
豊穣を獣と分けあって、捨吉は思うのです。

この時はいつまで続くのだろう、と。

髪はすっかり白くなり、一層皺深くなって痩せ細った体。
随分歳を重ねました。
今か今かと「死」を思い煩うときもありました。
ええ。いつでも。そのときが来て良いと思っていたのです。
ああ。
だというのに……。

頬を冷たい風が撫でていきます。
冬がやってきます。
いつもの年より蓄えは多いものの、駆け足でやってきた冬の到来に里山の生き物達も早々に冬ごもりを始めます。
狩りにでても腹が満たされない日が続いていた、そんなある日のことでした。
雪がちらちら舞う霜の降りた山道を石清水を汲みに出た捨吉と獣が歩いていきます。
先に立って歩んでいく獣の背には幾筋も閃る稲妻のような傷跡がありました。
別に初めて見るものではありません。獣が捨吉の元にやって来たときからこの傷跡は既にあったものです。
……ふと、捨吉は言いました。

「おまえのでかい図体じゃ、さぞかし腹も減るだろう。
あんまりにも腹が減るならワシも鶏も、全部食っちまっていいんだぞ?」

先を歩いていた獣は驚いたようにピンと耳を立て、捨吉の方へ振り返りました。四つの目が丸く、捨吉の顔を見ています。

「……そうだな。腹が減ったらそうするさ。
だが、その頃にはもう、春になっている。食い物に困ることなどないだろう」

そう言って獣はやんわりと目を細めて、尾をゆるりと揺らして歩いていきました。その後ろ姿は少しだけ喜んでいるように見えました。
いつも心とは裏腹なことばかり言う天の邪鬼な獣ですが、自分を気遣ってくれている言葉が素直に嬉しかったのでしょう。
跳ねるような足取りで足早に歩いていく獣の背中を見送って……捨吉はつと、涙をこぼしました。

どうしてこの獣をかつての自分のようだと思ったのでしょうか。
醜く牙を剥いている姿は確かに自分と同じだと感じていたのに。
なぜ、今まで気づかなかったのでしょうか。
背中に閃る傷跡は人語を解す獣が拠り所を求めてさ迷った果て、恐れられ罵られ追われてなお傷つけられた証。

そんななりをしていればどれだけおまえが善良であろうと、誰もがおまえを凶悪な化け物にしただろう?
そんなにたくさん傷つけられてきたのに、なぜ汚い生き方に走ろうとしないんだ?
こんな人里離れたぼろ屋の人間丸ごと食っちまったって、誰もお前を咎めもしねぇのに。

それでも、獣は無垢だったのです。

ぼろぼろと、捨吉の頬を熱く涙が滴っていきます。
それは確かに愛でした。
あなたを想う、愛でした。

さえざえと、空気の冷える夜でした。
捨吉は小刀を手に佇んでいました。
目下には事切れた若夫婦と、両側から守るように抱かれたまま眠る赤子。
……ああ、この夢を久しぶりに見るなぁ。
ゆるりと目を動かすと血濡れた小刀を持つ己の手は今と同じ皺深い手でした。
いつもはこの夢を見ていると自覚した瞬間から恐れで震え上がっていたというのに、今はなぜか穏やかな気分でした。
捨吉は小刀を脇に捨てると、赤子の方へ歩み寄りました。
赤子は寝返りをうとうとして目を覚まし、そして捨吉を見つけました。
そして変わらず、嬉しそうに手を伸ばしてきます。
捨吉はぎこちなく微笑むと、赤子をそっと抱き上げました。
首の座らない赤子は柔らかく、そして意外と重いのです。
小さな丸い頭に手を添えて、ゆっくりと胸元に引き寄せると、捨吉は赤子の顔を覗きこみました。
じっ……と、無垢の瞳が捨吉の顔を見上げています。

「長いこと……時間がかかっちまったなぁ」

そして船を漕ぐように、ゆらゆらと体を左右に揺らしながら赤子の背を優しく叩きました。
しばらくそうして穏やかに時が流れていました。

「今さらだなぁ……今さらだよなぁ……。
許されるはずなんてないんだよ。そうさ、許されないんだよ。
それでもな……出会っちまったんだ……。
老い先短いこの時になって、出会っちまったんだよ……。
春まで……夏まで……秋まで……冬まで……そして、また春まで……。
一緒に生きるだろうと思ってくれる馬鹿な奴に出会っちまったんだよ……」

捨吉の目から涙が溢れ落ちていきます。
止めどなく、幾筋も熱く、捨吉の頬を濡らして。

「……なぁ、今度こそ俺を殺してくれねぇか?
お前は死んで楽になりたいと言う俺に後悔に苦しみながら生きろと言ってきたんだろう?
……苦しいんだ。今になって死ぬ事がこんなにも恐ろしくて苦しいんだ。
俺はな、生きたいと思ってしまったんだ。もう長くないこの命をあいつのために生きようと。
許せないだろう?こんな………」

赤子は、静かに手を伸ばしました。
小さな手を広げ、変わらず無垢な目で捨吉を見上げて。
捨吉は空いている手でその小さな手のひらにそっと触れました。

それでも、生きてください。

小さな指が皺深い人差し指を握りこむ刹那に、そっと、そう囁かれたような気がして。

捨吉は逃げませんでした。
最期の時まで、あなたを想って生きることを覚悟しました。

その日は寒い夜でした。
立て付けの悪い縁側の雨戸は隙間だらけで、東の空に登り始めた満月の光が淡く差し込み、古ぼけた寝屋を照らしていました。
つぎはぎだらけの布団を被って眠る捨吉の側には獣が横たわり、寒さに震える捨吉を暖めていました。
捨吉の体は熱っぽく、ぜろぜろと呼吸を荒らげていました。

「なぁ……ごん。この刺青の意味、おめぇ、わかるか?」

捨吉は今まで見せることがなかった山賊の証である腕の刺青を獣に見せました。

「これはなぁ……ならずもんの証なんだよ。
人殺しで人と名乗れなくなった、ならずもんの証。
ごん……おめぇ、人を殺した事、あるか?」
「……何故唐突にそんなことを聞く?」

獣は困っているようでした。けれども過去を打ち明ける捨吉の覚悟のようなものを感じ取ってでしょうか、それは避けてはいけない問いなのだと察しているようでした。

「………人を殺したことはない。人の血は不味そうだから」
「……はは、そうかい。おめぇに味見なぞしてる余裕無かっただろうがよ。生きるのに精一杯なくせによぉ」

天の邪鬼の癖に正直に答えてくる獣に、捨吉は微笑みを浮かべていました。こみ上げてくるものを抑えるように、鼻を啜りあげます。

「人を殺して、金を奪って、仲間を裏切って……仲間を殺して。
俺が死ぬときはその報いを全部受けて死ぬもんだと思っていた。
死ぬのは恐くないと粋がっていた時期もあったさ。
だがいざその時を前にして、俺はぶるっちまった。
恐くなったんだよ。
逃げ出して、逃げ出して……こうやって惨めに歳だけくっちまった。
今更ならずもんが人になれるわけもねぇのに。
でもやっぱり恐かったんだ。
死ぬのが、恐かったんだよ……」

自害を試みる度に脳裏に閃いた赤子の笑顔。
最期の幻想の時でさえ、あの無垢な存在は死を赦しませんでした。
人として生きる時まで、死ぬことを赦さなかったのでしょう。

ふらり、と。
捨吉は獣の稲妻のような傷跡に手を伸ばしました。そして弱々しくなぞりながら、へへっ……と弱々しく吐息を漏らしました。

「そんな俺の前に、ばけもんが現れた。
赤い毛の、目が二つ余分についたごんたくれの大きな獣だ。
ああ、普通の死に方は出来ないだろうと思っていたが、こんなばけもんに食い殺されて俺は死ぬのかと、地獄の神様は何て粋な死に方用意してくださるんだと、あの時は笑えたよ。
でもそのばけもんはとんでもない馬鹿で……俺は死にぞこなっちまった。
俺をあの時喰ってりゃ、なんも関係なく鶏全部喰えちまったってぇのに」
「……悪かったな」

そんな考えなど今まで一度もしたことがないのでしょう、獣は不機嫌に喉を鳴らして捨吉を見ていました。

「……だが、おかげで、俺はもっと辛い死に方をする事になる……。
こんなならずもんの俺には、もったいないくらい最高で……ああ、とても辛い死に方だ」

ふと、捨吉の頬に涙が伝い落ちていることに獣は気がつきました。

「ごん……おめぇを残して俺は逝く。またおめぇをひとりにさせちまう」

ああ、そうだよ。
おめぇはやっと、こんな傷を負わなくてすむ拠り所を見つけられたのに。
またおめぇはでっかい傷を負わされることになっちまうんだ、俺に。

「おめぇは後悔してねぇか?あの時立ち去らなかったことを。
ずっと一人で生きてきたおめぇだ。一人で生きてきた俺だからこそまたわかる。
遺されることがどれだけ辛いかを。
おめぇ、後悔してねぇか?
また一人の寂しさを味わうことになるのを」

懺悔のように、捨吉は泣きながら問うていました。

「……案ずるな。俺は一人で生きていけるさ」
「……そうか……おめぇは強いなぁ」

なぁ、地獄の神様よ。
粋な死に方なんてどこにもありゃしねぇなぁ。
みっともなく泣いて逃げ回ってた天罰がこれだっていうんなら、こんな辛い死に方は俺だけにしてくれねぇか。
こいつにこれ以上でかい傷をつけないでやってくれ。
今度こそ、こいつが穏やかでいられる拠り所に辿り着けるように……。

儚げに揺れ消えるろうそくように、寝屋の月明かりが消えました。
月に雲がかかったのでしょう。

「あぁ……ごん……おめぇはあったかい。
あったかいなぁ……」

一つ、深い息を吐いて、捨吉は眠りに就きました。
六十と四つの人生でした。