re-CALL

「もしはぐれたら、それで合図な。
そしたらオレ、すぐに飛んでくるからさ。
ま、吹けるようになるまでは、はぐれないようにするってことで」

◆ ◇ ◆

「キョルワンキタハ、オムベンロズメミユ、ボルゴノツクニフガタミ」
流暢なアルベド語で彼女はそう言って慇懃に頭を下げる。
「………あの?」
「ドウデンユノワヘニハヌダ、ボルワ、ノニブワリエダミハヌ。
フメヅメヨ、タアジヤケクモオラボラタミハテンコルリ」
静かな語調で話し掛けてくる彼女を、ユウナは不思議そうに見上げていた。
ゴーグルを着けていて顔は良く分からないが、雰囲気からすると、おそらくルールーと同じ歳位の人だろう。ぴったりとした服装から惜しむことなく覗かせている引き締まった肢体からは想像も出来ないほど柔らかな物腰。それにこの丁寧な態度といい……とても、古の機械を使って無理矢理ユウナをアルベド族の連絡船まで連れてきた彼女と同一人物とは思えない。
(……困ったな。どうしよう………)
言葉の意味はユウナにはわからなかったが、無意味に怖がらせようという雰囲気は全く無い。むしろ、このように無理矢理連れてきてしまったことに対して、どこか詫びているようにさえ見える。
(これって、誘拐、なんだよね?)
おもわず彼女にそう問いたいとさえ思った。
確かに今、ユウナは一番人目につきにくい場所である連絡船の貨物室の中にいる。だが、動きを制限する類の事、例えば手首を縛ったりとか、猿轡をかませたりなどは一切していない。
だからといってこの場所から走って逃げ出せる自信はユウナには無かったが。
けれどあまりにも自分の中で想像していた誘拐像と状況が違うので、ユウナはただただ困惑していた。
そんな困惑した表情を見せるユウナに、彼女は微苦笑を見せる。どうやら、不安にさせていると勘違いしているようだ。
(……不安は、ないといえば嘘になるけど……)
ただあまりにも彼女の態度が優しすぎて、誘拐されたという事実をユウナはなかなか素直に受け止められないでいた。
それに、彼女には悪いと思うが、この事態をあまり深刻には考えてはいなかった。
世の中の例に漏れず、ユウナにもガードが居る。
ここに連れて来られる道の途中、視界の隅でルールーがこちらを見ていたことをユウナは覚えていた。おそらく程なくして、ユウナのガードたちがここに来るだろう。

(――――心配、かけちゃったな……みんなに)

すっかり黙り込んでしまったユウナを見て少し安堵したのか、彼女は軽くため息を吐くと、ユウナから離れすぎない位置にある荷物の上に腰掛けて、貨物室の通風孔から船の外の様子を窺い見る。
彼女の横顔には緊張の影が浮かんでいた。おそらく彼女も、ガードたちがここに来る事を分かっているのだろう。
(………何が目的で、ここまで連れて来たんだろう)
拙い言葉で彼女は『アルベド・サイクスの勝利のために』とは言っていたが、それだけではないように見える。いや、むしろ……それは表面上の理由にしか思えない。彼女がそんな勝ち負けだけのためにこのような危険を冒すとは、どうしても思えないのだ。
「どうして、私をここに連れてきたんですか?」
おそらく通じないだろうなとは思いつつも、ユウナは彼女に問い掛ける。
彼女ははっとこちらに顔を向け、しばらく逡巡して見せた後、拙い言葉で「ごめんなさい」と一言、呟いた。
それは言葉がわからない、という意味で答えた言葉なのか、それとも……こういう事態を起こしてしまったことを詫びているのか。
もしかしたら両方なのかもしれない。
ふいっとその場から逃れるように、彼女はまた通風孔に目を向ける。
これ以上何かを問い掛けても無駄だろう。ユウナは彼女の横顔を眺めてそう悟ると、膝を抱えて荷物の山にもたれかかる。
薄暗い貨物室の中はどこか寝室の薄暗さに良く似ていて、ふっと眠気を誘う。
(みんな探してくれてるのに、私って緊張感、ないなぁ……)
ここに連れて行かれる時に見たルールーの表情を思い出し、ユウナは微苦笑を浮かべた。
(……ワッカさんは試合の前だもの、来れないよね。
だから、きっとここに来るのはルールーと、カフェにいたキマリ……あと―――)
ふと思い浮かんだ、太陽の笑顔を持つ少年。

(キミも、来てくれる、かな?)

ユウナが召喚士になったあの日。その少年は海からきた。
千年前に滅んだと伝えられるザナルカンドから、ここに飛ばされてきたのだと。
その口ぶり。胸に輝くペンダントやピアスのマーク。自信たっぷりに笑う表情。
自分は、ザナルカンド・エイブスのエース――ティーダだと、胸を張って答えた青年。
――――懐かしさがあった。
キミと、幼少の頃父と一緒に旅立ったあのたくましいガードと。
あまりにも、そっくりで。

「ジェクトさん……」

彼女には聞こえないように、こっそりとユウナは呟いた。
(そんなこと言ったらキミは、またちょっと怒るかもしれないね)
「……………」
アーロンを見たという噂を頼りにカフェに向かう途中、はぐれた時の合図にと教えてくれた指笛。
―――そっと、親指と人差し指で輪を作って。
(………呼べば、キミは来てくれるのかな? でも………)
ここに連れられてきてからどれだけ時間が過ぎたかは分からないが、もうブリッツの試合は始まっている頃だろう。
第一試合はビサイド・オーラカ対アルベド・サイクス戦。
ルカの港についてすぐ、絶対勝つ!と豪語したティーダの自信たっぷりの横顔がふと、ユウナの脳裏に映った。
(―――……………)
少し諦めるような表情をして、輪を作っていた手を拳に変える。

『呼んじゃ、だめ』

耳の奥で小さい頃の自分の声が聞こえたような気がして、ユウナはそっと目を閉じた。

◆ ◇ ◆

そこはベベル寺院の廊下だった。
壁には歴代の大召喚士を称えるモニュメント。
磨き上げられた大理石の床は、冷たく薄青い光を反射していた。
廊下全体に広がる、ぴんと鋭く張り詰めた空気。
それは人に知られることなく湧き出で続ける清浄な湖の水面を思わせる。
静かで荘厳な空気を湛えるその廊下を、ユウナは出来るだけ靴音を立てないように歩いていた。
……まだ七つを数えたばかりのユウナには、この廊下は広すぎる。加えて余りにも静か過ぎるその廊下は、少しでも音を立てたらそれを苛むかのように反響した音が我が身に降り注いでくるのだ。
その重圧に押しつぶされそうな気がして、ユウナはいつも、廊下の隅を息を潜めながら歩いていた。
(……お父さん)
ユウナの父・ブラスカのいる部屋まで、あとすこし。でももう、息が続きそうに無い。
はやく、はやく。
苦しいならば息をつけば良いのに、ユウナにはそれが出来ない。いや、息をつく事をユウナは恐れてさえ居る。
と。
――――――カツンッ、カツン……。
あと数歩で廊下の角にくるという所で、その角の向こうから数人の足音が聞こえてきた。音からして、二人だろう。
ユウナは慌てて廊下の壁にへばりつくようにしてうずくまる。そんな事で姿が消せるわけではないのだが、ユウナにとってはそれが今出来る一番の方法だった。
しかし予想した通り、角からこちらに曲がってきた足音は、少し驚くようにしてその足音を止める。
が。

「またこの子だよ……」
「あのブラスカの子だ」

ひくっとユウナは息を呑み、継ぎ目の無い大理石の廊下を一生懸命睨み付ける。
その言葉の意味を知らないユウナではない。もうそこまで幼い子供ではないのだ。
僧達はまるで気がつかないといった風にユウナの側を通り過ぎていく。普通なら廊下の隅でうずくまる子供を見て、放っておく者はまずいないだろう。
だが、この寺院のほとんどの者は、ブラスカとこの小さな幼子を苛むような目で見る。それをあえて指摘するものも居ない。
いや。一人。
僧兵・アーロン。
彼だけは、そんな目をして見る僧達に喝を飛ばしてくれた。将来副官になる事を約束されている彼から指摘を受ければさすがに面倒な事になる。僧達も無用な争いを避けるためにと、最近は射すような視線を投げてくるような事は無くなった。けれど、それが駄目ならと言わんばかりに、今度は見えない振りをする。
なぜ自分達がこのような扱いを受けるのか。その理由をユウナは、まだ知らない。
ユウナは、昔からあるアルベドとの確執について知らない。だからなぜ母がアルベド族であることがいけない事なのかも分からないし、ブラスカが同じように嫌悪されるのかも分からない。
だから、ユウナはブラスカに問うた。どうして、僧達は自分達の事を見て見ぬ振りをするのか、と。
その瞬間。
ユウナはそれは問うてはいけない質問だったのだと、自ら悟った。
父が今まで見せた事が無かった、深い悲しみを湛えた瞳。それはほんの瞬くだけの間でしかなかったのに、その瞳の色を長い時間見続けていたような錯覚に襲われ、ユウナは何も言えなくなってしまった。
父が困ったような声で答えてくれた理由は、ユウナの耳に入っていなかった。
その瞳だけが真実を痛いほどに語っていたから。
―――自分達は、ここには受け入れられない存在なのだ、と。
理由は分からなくても、それだけは、ユウナに分かったのだ。

(………お父さん)

僧達の足音がずいぶんと遠ざかってから、ユウナは再び歩き出す。
父に問うたその日から、ユウナはいつのまにかこのようにしてブラスカの部屋へ行くようになっていた。
いや、実際は……部屋の前に来た後、ユウナはノックをする事もせず、ただ扉の隣に腰を降ろして部屋の中から聞こえてくるブラスカの声に耳を傾けるだけだった。
きっとブラスカは知らないであろうこの訪問を、ユウナはほぼ毎日行っていた。
(あと、少し)
父の居る部屋は、この角を曲がって最奥。
(お父さん)
……いつのまにか、ユウナの頬に冷たいものが伝い流れていた。けれどそれには気づかないまま、ユウナはさっきと同じように足音を立てないようにして先を急ぐ。
(あと、すこし。あと、すこし)

―――――と。

「っけーーーっ!! やってられっか!!
酒も女もご法度だって?! そんな味もしゃしゃりも無い所に、このオレ様がおとなしくしていられるかってんだ!! おれはさっさとおいとまさせてもらうからな!!」
「こら待て貴様!!」
「待てといわれて誰が待つってんだ!」
バーンっと騒々しく扉を蹴り開けて。
いきなりユウナの目の前に、日に焼けた恰幅のいい男が姿を現した。
「………」
あまりな事にユウナはただぽかんと口を開けたまま、その熊のような大男を見上げる事しか出来なかった。
「んぉっと?」
あと少しで蹴り飛ばしそうになった足元に居る子供を、男はすんでのところで立ち止まって、いまだ口を開けたままの少女に目線をあわせるようにしてかがみ込む。少し怪訝に眉をひそめた後。
「……なんだぁ? ここはこにくったらしいカビが生えてそうな坊主の他に、豆粒みたいな小さな子供までいるのかよ?」
「……ユ、ウナ」
「あん?」
今まで息を止めていたユウナは、少し咳き込みながらその男に自分の名前を告げる。
男は顎に手をおき、そして、やおらポンっと手を打つと、にぃーっと白い歯を見せて豪快に笑った。
「お前、もしかして、ブラスカの子供か?」
ブラスカの子供、という部分でユウナは小さく息を飲んだ……が、この男の声の響きは、いつも苛むようにして見る僧達が言う言葉の響きと全く違う。その事にユウナは少しだけ安堵して、小さく首を縦に振った。
「ぃよっし! ついてこい!!」
「え?」
いきなりそう言われて体が宙に浮いたかと思うと、ユウナは男の頭の上にいた。男の肩にユウナの足が下ろされて、落ちないようにと男はしっかりユウナの足首を掴む。
―――と。
ばたんっと先程と同じく扉が開いて、赤い僧兵の衣が翻るのをユウナは見た。
「こらジェクト!! まだ話は終わってな―――」
「だぁーまりやがれぃ!! おいブラスカ! お前の子供は預かった! 返してほしけりゃオレの要求に応えやがれ! お前の旅にこのオレ様を連れて行こうってんなら酒くらいは自由に飲ませろ!! それができないってんなら、この話は無しだぜ!!」
「お、おい、貴様!」
「あーばよっと!!」
「ちょっ……!!」
まるで台風のように口上をまくし立てるだけまくし立てた後、男・ジェクトは高笑いをしながら、重く厳粛な空気の漂うこの広い廊下を軽やかに走り去っていった。
………ユウナを肩車したままで。
ジェクトの腕を掴もうとして掴み損ねた赤衣の僧兵は、その呆れるほどの素早さと奇妙な違和感に襲われて、手を伸ばしたまま硬直していた。
「行ってしまったね、アーロン」
半ば笑いをかみ殺しながら、扉の奥から裾の長い僧衣を身に纏った青年がやって来る。
と。
その声にはっと我を取り戻すと、慌てて僧兵・アーロンが青年の方へ向き直った。
「ジェクトの肩にブラスカ様のご息女が居られましたよ?!」
「うん、いたね」
まだ笑いが止まらないのか、それとも慌てふためくアーロンが面白いのか――おそらく両方だろう――青年・ブラスカは軽い口調で肯定する。
「……どうして、そう落ち着き払っていられるんですか?! あなたは!!
と、とにかく、後を追います」
「―――いや、しばらく二人だけにしておこう、アーロン」
走り出しかけたアーロンを、ブラスカは穏やかな声で引き止める。意図を読みきれないアーロンは眉をひそめたまま、もう一度ブラスカに向き直る。
「彼の返事を聞いただろう? 彼は旅のガードをつとめてくれるって」
「……問題はそこではないと思うのですが」
ため息と共に、アーロンは言う。
「先日まであの男は牢に捕らえられていたのですよ? そんな彼をあなたはガードとして連れて行くとおっしゃった。こう言っては失礼ですが、素性の知れない者を、しかも牢に捕らえられていたあいつを旅に連れて行くのは……今でも私は反対です」
「どうして? 彼はザナルカンドから来たといっていたじゃないか」
「あいつの言うザナルカンドと、我々の知っているザナルカンドはあまりにも違う。それをいきなり信じられる人がいますか?」
「ここにいるじゃないか、アーロン」
「………ブラスカ様」
脱力したアーロンに悪びれもせず、ブラスカは笑った。
「そんな言葉遊びに―――」
「アーロン。僕は本気だよ」
「………」
言葉を遮るそのきっぱりとした口調に、アーロンは思わず閉口する。
穏やかな表情は相変わらずだが、瞳だけが先程と違う輝きを湛えていることにアーロンは気がついた。
「ザナルカンドから来たという彼なら。彼がガードになってくれたら。
もしかしたら、永遠のナギ節を、現実のものに出来るかもしれない。
今まで多くの偉人達がナギ節のためにシンと戦った。
その永遠と思える悲しみの螺旋を、やっと断ち切る事が出来るかもしれない。
君はそれを絵空事だと笑い飛ばしたいかい?」
「………」
「僕は、彼がその永遠のナギ節への旅の希望になると信じているんだ」
「……実際にナギ節を作られるのは、あなたですよ、ブラスカ様」
「ふふ、そうだね」
一本取られたという風に苦笑するブラスカ。
ふと、ブラスカはジェクトが走り去って行った方に目を向けて―――――
「………スピラに生きる人々の悲しみを取り除きたい。いや、もしかしたら……」
「?、もしかしたら?」
「僕はあの子の笑顔が見たいだけで、永遠のナギ節を作りたいのかもしれないね。だとしたら君達を僕の都合だけで巻き込んでしまっているな」
「そ、そんなことは!」
慌てて否定しようとするアーロンをブラスカは穏やかな顔を見せて笑った。
「聞いたよ。副官になれる縁談を断ったそうだね。
……君はまだまだ必要とされる人材だ。気の早い話だとは思うけど、この旅が終わったら、どうか人々を率いてくれる存在であって欲しい。寺院の者達だけでなく、スピラの人々を」
真摯な目で言うブラスカに、これは遺言になる事を覚悟していった言葉なのだとアーロンは自覚する。
……これから、こういった言葉を何度も聞いていくことになるだろう。
ふと、わき起こったその考えに、アーロンは苦いものを感じながら。
「ほんとうに、気の早い話ですよ……」
その言葉には何も答えず、ブラスカはただ穏やかに微笑んだ。

◆ ◇ ◆

「ね、ねぇ、おじさん」
「おじさんじゃねぇ、ジェクトだ」
「あ、あの……ジェクトさん」
「なんだ?」
ずんずんと大またで進んでいくジェクトの頭の上で、ふらふらと左右に振られながらユウナはおずおずと聞いた。
「どこに向かっているの?」
「どこっておめぇ……」
ぴたっとジェクトは足を止める。その反動で体が大きく前に傾いで、ユウナは慌ててジェクトの額に巻かれているバンダナをはっしと掴んだ。
「………そういや、オレ、外出歩くの初めてなんだよな」
「え、えー?」
素っ頓狂な声をあげるユウナに、ジェクトは大きな声で笑ってみせる。
「ま、そのへんどっかぶらぶらしてりゃいいだろ。そのうちあのカタブツが追いかけてくるだろうしな。
あー、けどこんなカビくさい所うろついてんのは嫌だなぁ。こっちまでカビ臭くなっちまいそうだぜ」
あー、困った困ったと廊下の真中で堂々と腕を組んで逡巡するジェクト。その様子をユウナは恐る恐る見下ろしていた。
……どうしてこの人は廊下の真中に立てるのだろう。
走って、笑って、堂々としていられるのだろう。
それが幼いユウナには不思議でしょうがなかった。
「おい、えっと、ユウナちゃんで良かったか?」
「え?」
いきなり頭上のユウナを見上げるようにして首を仰け反らせたジェクトに、振り落とされないようにユウナはしっかりバンダナを掴んだまま、ジェクトの顔を覗き込んだ。
「こんだけ大きい所なら、ほら、屋上とか展望台とか、そういう所あるだろ?」
「……う、うん」
「んじゃ、そこ案内してくんねぇかな?」
「い、いいけど……」
「おーし、んじゃまずどっちにいけばいい?」
「……そこの角を右」
――――――カツンっ……。
「!」
これから向かおうとしていた廊下の角から聞こえた靴音に、ユウナはびくっと身を竦ませる。
「?、どしたぃ?」
いきなり黙り込んでしまったユウナをジェクトは不思議そうに見上げ、そしてほどなくして、向こうから足音が近づいてきている事を察した。
足音は一人。方向からしてアーロンが来たとも考えにくい。
徐々に近づいてくる足音にユウナの体が小刻みに震えだす。その様子を肩で感じ取ったジェクトは無言で眉をひそめると、ゆっくりと足音を立てないようにして廊下の壁に背を向けて立つ。
(ジェクトさん……?)
やがて床に人影が見えて、角の陰から黄色い衣の僧兵姿の青年が姿を見せた。
(あ……)
知った顔の者に少しだけ安堵してユウナが息をつく。
――――――と。
「擬態。私は石像」
「!!」
壁に描かれている大召喚士のモニュメントに模して、ジェクトはぴたりっとポーズを決める。
それを目にした彼はあんぐりと口を開けたまま、呆然と立ち尽くしていた。
まるで魔法が掛かったかのように動けなくなってしまった彼の顔は、前に本で読んだ事がある大召喚士ガンドフが封じたとされる魔物・サボテンダーの顔にそっくりで。
ふつふつと喉にこみ上げてくる笑いのムシに、ユウナは全身を震わせる。
「ぷっくく……」
「あ、こら、笑うな。ばれちまうだろうが」
「あっははは!」
小声でささやくジェクトをよそに、とうとうこらえられなくなってしまったユウナは大声で笑い出した。
「き、き……」
ユウナの笑い声でやっと硬直が解けたのか、彼はわなわなとこちらを指差して奇声をあげている。
その様子すらおかしくて、ユウナは足をばたばたさせて笑っていた。
「貴様、オハランド様のモニュメントになんと言う無礼をー!!」
「ほーれ、逃げろーっと!!」
癇癪を起こした彼を尻目に、ジェクトは軽いフットワークでその場から走り出す。剥きになってジェクトを捕まえようとする彼の腕をすり抜けてジェクトは不敵の笑みを浮かべながら。
「バーカ、このオレ様がひょろっちいキノコの親戚みたいなお前に捕まるかってんだ!!」
そう言い残したかと思ったら、もうそこにはジェクトの姿は無かった。
「あ……あの………男はっ!!」
わなわなと肩を震わせて、ふんっと大きく鼻息を噴き出すと。
彼は一目散にブラスカの部屋へと目指して走って行った……。

――――――ユウナはまだ、笑っていた。

◆ ◇ ◆

「おー、なかなか見晴らしのいいとこじゃねぇか! なぁ!!」
「うん!」
空は雲ひとつ無い快晴。太陽は南天から少し傾いた頃といった所だろうか。
眼下一面に広がる、赤い石造りの建物が格子状に整備された町並。少し窮屈そうに見えるその町の向こうには青く輝く海が見える。
潮の匂いを引き連れて、向かい風が耳元でばたばたと騒いでいた。
遥か彼方でスピラカモメが高く鳴く声が聞こえる。
―――今日はなんて眩しい日なんだろう。
潮風を胸一杯に吸い込みながら、ユウナはそう思った。
「あー、絶好のブリッツ日和じゃねぇか。くそー、何で海があんなに遠いんだよ」
「ジェクトさん、ブリッツ好きなの?」
「好きも何も! オレ様はザナルカンド・エイブスの英雄なんだぜ!
オレ様の出る試合は必ず勝つ。いや、一点も取らせねぇ! ジェクトシュートが決まれば観客は全員総立ちってなもんよ!!」
「すごーい!!」
ユウナはブリッツに関して、ルールはおろか、どんなチームがあるのかさえ知らない。だから、ザナルカンド・エイブスというチームは存在しない事も知らない。
それでも、ザナルカンドという地がどんな所か、ユウナは知っていた。
千年も前に滅び、今は朽ち果てた遺跡のみが残るとされる地―――今やその地に住まうものは誰一人居ないと言われている。
そして、たくさんの召喚士がそんな寂しい場所を目指して旅をすることも。
「ジェクトさんはザナルカンドから来たんだ?」
「ん……まぁな。けど、ここで言われているザナルカンドと、オレ様のザナルカンドはどうやら違うらしい。
なぁ、ユウナちゃん。ザナルカンドってもしかして二つあるってなことはないか?」
「え? ……それは、わからないよ」
「……そっか。まぁ、そうだよな。ブラスカだってわからねぇって言ってたし」
「………」
(お父さんも?)
なぜか急に心細くなって、ユウナはジェクトのバンダナを掴む。その小さな力を感じ取ってか、ジェクトは目だけを上に上げてユウナを見ようとした。もちろん、ユウナの顔を見ることは出来なかったが。
「………お父さん、ナギ節の旅に出ちゃうの?」
いきなりな質問に、ジェクトはドキッとして息を詰まらせる。
「な、なんでそれを」
「……さっき、部屋の前で」
「………あー、そいえば言っちまってたなぁ、オレ」
「………………」
手持ち無沙汰な手で胸元を掻きながら、ジェクトはしばらく黙り込む。
気まずい沈黙の中、風だけが相変わらずばたばたと耳元を騒がせていた。
(………これは、こっちが卑怯ってなもんだよな。子供にだんまりを決め込んじまうのはよ)
「……あのよ。
オレにはよくわかんねぇけど、ブラスカはシンって言う悪者を退治する旅に出るつもりらしい。その、シンって奴をやっつけたらよ、世界中の人々が悲しい思いをしなくて済むそうだ。
で、ブラスカはオレにその旅でのガードをやってくれって言ったわけよ。まぁ、何でも出来るオレ様に目をつけたって訳だな。
ユウナちゃんの親父さんはなかなかいい目をしてるぜー?」
軽い口調で言ってみたものの、先程みたいな鈴を転がすような笑い声が聞こえてこない。
(うわっちゃー、失敗か? あのガキならここでびーびー泣き出すんだろうなぁー。オレ、女の子を泣かせるのはちょっと……うーわー、まずいな、こりゃ)
ユウナの泣き顔を想像して焦るジェクトに、しかし。
「………多分、ね。
いつか旅に出るんじゃないかって、思ってたんだ。
お父さん、優しいから。シンでお母さんが亡くなったときも、お父さん、他に助かる人がいないかって一生懸命だったから」
ジェクトの予想を裏切って、ユウナは穏やかな声で返事を返してきた。
いや……穏やかというよりも、何かを押し込めて我慢している声。その何かも簡単に想像がつく。
それでも、ユウナは平気だと、隠そうとして一生懸命になっていた。まだ七つを数えるばかりの子供には、それはあまりにも辛い事だろう。
「………そっか」
さっきブラスカの部屋を跳び出した時に見たユウナの顔を、ジェクトは思い出す。その頬に伝うもの。あれは間違いなく涙だった。
廊下の向こうで誰かが来る足音を聞いた時に見せた動揺。それだって誰かに見つかったら怒られる、みたいな動揺の仕方ではない。むしろ、見つかる事に恐怖すら抱いている感じだった。
(ありえねえだろ。まだたった七つの子が、こんな……あのガキみたいにびーびー泣く事も、寂しいっていう事も、出来ずに)
それでも、ブラスカは決心したのだ。いや、だからこそ、決心したのだろう。

『僕は、このスピラにある悲しみの螺旋を断ちたいんだ。シンの襲撃に恐れる日々を過ごす人々の悲しみを、シンから生まれてしまった確執の苦しみを。
僕の娘を含めて、全ての人が今、その螺旋に振り回されて涙している』

牢から出てブラスカの部屋に通された後、ジェクトは、なぜシンにこだわるのかを彼に問うた。
そのことを振り返ってジェクトは小さく息を吐く。
……あれは決心なんて生ぬるいもんじゃねぇ。
どんな強豪の選手にすら臆したことなかったジェクトは、はじめて、真摯な目でそう語ったブラスカに戦慄をおぼえたのだ。
(―――覚悟だ。覚悟を決めた者の目だ)
その目と言葉が、忘れられないほど強く印象に残っている。
「………そんじゃ、このオレ様がしっかりガードしてやんねぇとな」
「ジェクトさんが?」
「おぅよ。何? 不満か?」
「う、ううん!!」
慌ててぶんぶんっと首を横に振るユウナにジェクトは苦笑を浮かべながら。
「まー、旅に出るって言ってもまだちょっと先らしいからな。
それまでただ待ってるだけっつーのはつまんねーからよ」
よいしょっとユウナを担ぎ上げると、今度はがっしりとした腕の上にユウナを座らせて、ジェクトは満面の笑顔で言う。

「それまでの間、オレ様がユウナちゃんのガードになってやるぜ!」

瞬きをして、ユウナはその言葉の意味が分からず首を傾げる。ガードとは召喚士を守る者だ。ユウナはまだ従召喚士ですらない。
「……ガード?」
「そ、ユウナちゃんが心細いって思った時はな、オレ様を呼べばいい。そしたら飛んでいってやっからよ」
「……ジェクトさんを呼ぶの?」
「そうだ」
「……でも、寺院の廊下で大きな声を出すのは駄目なんだよ?」
「んなもん関係あるか! 廊下ってのは走って騒ぐ為にあるもんなんだ」
「でも……だめだよ」
「んーあー、んじゃー………そうだな」

――――――ピィィィーーーーーー!!

きょとん、とユウナはジェクトの顔を見る。
軽く指をくわえたかと思うと、遠くで鳴くスピラカモメの声よりも高い音が展望台に響き渡った。
「ブリッツの応援ではな、こうやって指笛を吹くんだ。
うちんとこのくそガキも、ライバルチームを応援してオレがこてんぱんにやられるようにって応援する為に必死に指笛の練習してるよ。
そのアイデアをまあ、こっそり頂いちまおうかね」
おどけた様子で指笛を吹くまねをしながら言うジェクトに、ユウナは初めてジェクトが自分とほぼ同じくらいの子供が居る事を知った。ちらっと見せた表情は、口元を皮肉げにゆがめてはいるがとても優しい穏やかな瞳をしていて。
「ふ、ふふ……」
「よし、んじゃ、ユウナちゃんが心細いって思った時は指笛で合図しろよ。
なーに、廊下で大きな声を出しちゃいけないって言ってても、指笛を吹いちゃいけないとは言ってないんだからな、なぁ?」
にかっと笑うジェクトにつられて、ユウナもこぼれんばかりの笑顔で頷く。
「ぃよっし。んじゃ早速練―――」
「こら、ジェクト」
と。
上機嫌で早速指笛を吹こうとしていたジェクトの言葉を遮って、展望台の階段からアーロンがやってきた。どこか疲れた表情を見せているような気がするのは、きっと勘違いではないだろう。
自分達が逃亡中の身であることを忘れていたユウナは―――というよりも、逃亡をしているのはジェクトのみなのだが―――慌てて首を竦ませる。
「……うーわー、せっかく親子水入らずで居る所を……」
「誰が親だ!ユウナ様はブラスカ様のご息女だぞ!!」
「けっ、んなもん三分一緒にいたら知り合いの子供はみんなオレ様の子供だ」
「おーまーえーなー!!」
耳をほじりながら明後日の方向を見て言うジェクトに殺気を揺らめかせてアーロンがにじり寄る。
一触即発になりかねないこの状況だというのに、ユウナは普段アーロンが見せない表情がどこか面白くて。
「ふ、ふふ」
「………」
二人して、ユウナの笑顔にしばし言葉を失った。
特にアーロンは、さっきまで怒っていた事さえ忘れて、その笑顔を見つめていた。
――――………………。
ユウナが時々隠れるようにしながらブラスカの部屋の前に来るのをアーロンは知っている。それでも、子供の扱いがわからなくてどうすればいいのか困っているうちに、ブラスカに気づかれる前にと立ち去ってしまうユウナの後姿をアーロンは何度も見送っていた。
……なぜこんな当然な事に気づけなかったんだ。
ユウナはまだ、子供なのだ。こんなにも子供らしく笑える、子供なのだ。

『僕はあの子の笑顔が見たいだけで、永遠のナギ節を作りたいのかもしれないね』

――――お守りしなくてはいけない。あの方を、必ず。
「ジェクト」
「あん?」
声の調子に先程とは違う空気を感じて、ジェクトはアーロンを正面に見据える。
兵特有の威厳を持ったアーロンの視線を、それでもジェクトは臆することなく受け止める。
「ブラスカ様はお前を信用している。それに恥ずべき行為は慎め」
「んなもんわかって――――」
「俺達はガードだ。それが誇りなんだ。自らの誇りを貶めるような事はするな」
「………わかったよ」
ふぅっと息をついてジェクトは、睨み据えているアーロンにぷらぷらと手を振って見せた。
おどけている仕草に見えるかもしれないが、決してそうではない事はジェクトの目を見たら分かる。
とりあえず二人が展望台に居た事をブラスカに報告する為に、アーロンはさっと身を翻して階段を下りていこうとする。
と。
ふと何かに思い至ったかのように歩みを止めて。
「それと」
「まだなんかあんのかよ」
「……キノックをあまり怒らせるな。あいつは怒らせると性質が悪いぞ」
「へいへーい」
まるで分かってない事が分かる返事にアーロンはため息を吐いて、さっさと展望台の階段を下りていってしまった。
その後姿を見送りながら。
「……ところで、キノックって誰よ」
「さっき石像の事で怒らせてしまった人だよ、ジェクトさん」
……ジェクトは、その事すら覚えていなかった。

◆ ◇ ◆

ブラスカがベベルの祈り子の間に入ったのは、それから一週間ほど後だった。
その間に旅の準備はいっそう慌ただしくなっていく。けれど寺院はそんな慌しい彼らに対して相変わらず知らぬ存ぜぬのままだった。
「おっす! ユウナちゃん、指笛吹けるようになったか?」
「……ん、まだまだ、かな」
ブラスカの部屋で待機しているアーロンとジェクトに会いに、ユウナは頻繁に部屋に訪れるようになっていた。いつもならブラスカが気づく前にユウナは部屋の前から立ち去ってしまうのだが、あの日以来、立ち去る事はしていない。いや、ユウナが扉をノックする前に、ジェクトが先に気づいてしまうのだ。ユウナ自身はノックする事にためらいを感じているようだが、そのためらいを起こさせる前に、この男はさっさとユウナを部屋に招き入れてしまう。
(まぁ、子供の扱いがうまいのは助かるが……。
その所為で、なぜ自分がジェクトの分まで荷造りをしなくてはいけないんだ)
にこやかにユウナと談笑するジェクトを恨めしげに睨んだ後。
(………あとで、斬る)
物騒なその考えをとりあえず頭の隅に押し込めて。
――――ふと、日の翳ってきた外を眺める。
出立までもう数日も無い。
ブラスカは人気の無い夜明け前に出立する予定だと言っていた。その事はもう、祈り子の間に入る前にユウナに伝えたらしい。
ユウナはこの寺院にとどまる事になる。一人で。いや、世話役の者は居るが、ほとんど一人のようなものだ。
かわいそうだ、とは思う。けれど相変わらずユウナは平気な振りをしている。最近は笑顔を見せるようにさえなった。けれどユウナの顔を毎日見ている者からしたら、それが本当に笑っているかどうかなんて一目瞭然だった。
アーロンでさえ、知らなかったのだ。あの日、展望台で見せたユウナの笑顔。子供らしく笑う顔。
(ナギ節がきたら、この子はあんなふうに笑えるのだろうか?)
その意見を一瞬否定しかけて……アーロンは首を横に振る。
それはユウナの笑顔を見たいと望んで戦いに行くブラスカに対して、あんまりな言葉ではないか。
「早く指笛吹けるようになれよー」
「うん、がんばるね」

――――――そして、出立の時が来る。

まだ空気の冷たい夜明け前の空の下、三人は静かに寺院の門をくぐり抜けていく。
「しっかし……召喚士様がご出立だっていうのに、こう、夜逃げみたいでなんつーか、物悲しいなぁ、おい」
「私は構わないよ、ジェクト。むしろ……見送りがあると、覚悟が鈍ってしまいそうだから」
「……ま、それなら、シンを倒した後で派手に凱旋といこうや!」
腕をぐっと掲げて見せてジェクトは豪快に笑ってみせる。その顔をブラスカは穏やかに笑ってみていた。アーロンはただ無言で付き従っている。
朝もやのかかる、門から外の坂道。三人の姿がもやの中に溶けていく。

(……今、指笛を吹いたら、ジェクトさんは飛んできてくれる?)

――――ユウナは、門柱の陰に見つからないようにうずくまっていた。

(ジェクトさんと一緒に行くお父さん。
ジェクトさんがこっちに来てくれたら、お父さんも来てくれる?)

そっと。
親指と人差し指で輪を作って、口元に押し当てる。
指笛はもう、とっくの昔に出来ていた。教えてもらったその日からいっぱい練習をして、三日目でやっと吹けるようになった。

『ユウナちゃんが心細いって思った時は指笛で合図しろよ』

(寂しいよ。行って欲しくない。
ザナルカンド・エイブスの十三回目の優勝の話、聞きたいのに。
ジェクトシュート一号と二号の話だって。
ブリッツボールのサインの仕方だって。
ジェクトさんの男の子の話だって)

『シンって奴をやっつけたらよ、世界中の人々が悲しい思いをしなくて済むそうだ』
『僕は、このスピラにある悲しみの螺旋を断ちたいんだ。シンの襲撃に恐れる日々を過ごす人々の悲しみを、シンから生まれてしまった確執の苦しみを。
僕の娘を含めて、全ての人が今、その螺旋に振り回されて涙している』
『見送りがあると、覚悟が鈍ってしまいそうだから』

ぱたっ……と、指に涙が零れ落ちる。
「………だめ」
だんだん込み上げてくる嗚咽を、ユウナは必死に噛み殺す。
輪を作っていた指を、ぎゅっと固い握り拳に変えて胸元に引き寄ると、背中を丸めて懸命に下を向いていた。
息苦しくて、胸が痛くて、でも……声が出せない。

(………呼んじゃ、だめ)

三人の後姿が見えなくなって朝もやが晴れた頃。
ユウナはやっと声をあげて、泣いた―――――

◆ ◇ ◆

ドオォォ……ン!
ユウナを夢から引き戻させたのは、貨物室内の空気を振動させるほどの雷音だった。
はっと体を起こすと、急変した事態に舌打ちしたアルベド族の彼女が食い入るように船外の様子を窺っているのが見えた。
「ハタワ、カメユソップヌクランケ!」
ガードの予想外の強さに、彼女は驚きを隠せないでいるようだ。
(……今なら……)
ちらっと、ユウナは貨物室の隅にある予備の配水管用に置かれている鉄パイプに目を移す。
外の様子を窺うことで精一杯なのか、彼女はユウナの方に目を向けていない。
そこがチャンス見定めて、ユウナは鉄パイプの方にそっと手を伸ばした。
「フッ、モルラッヤサ……」
―――と。
彼女が立ち上がって、はじめてユウナの方に目を向けた。
瞬間。
「ごめんなさいっ!!」
油断していた彼女の首元に鉄パイプを振り下ろす。
がつっと鈍い音を立てて程なく、彼女の体が前に傾いだ。倒れかけた彼女の体を慌てて支えようとして、ユウナはパイプを振り落とす。カラランっと乾いた金属音が貨物室の中でこだました。
(……よかった。息はちゃんとしてる……)
そっと荷物の上に横たえさせて、せめてもの罪滅ぼしにと彼女の手にポーションを握らせた。
「……あなたがどうして、私をここに連れてきたのか分からずじまいだったけど……」
気絶したままの彼女に、眠ろうとする子供をあやすようにユウナは穏やかな声で語りかける。

「――――もし、あなたが私の旅を止めさせようとしていたのなら……ごめんなさい。
私、旅は止めません。
それだけは、絶対に譲れないんです……」

ずっと昔に決めた覚悟だから。
そして、父と同じ、覚悟だから。

―――――シンを、倒す事。スピラの人々の悲しみを消し去ること。

ここの来る途中で起きたキーリカでの出来事。
シンの脅威を知ったのはその出来事が始まりじゃない。もう、ずっと昔からだ。
シンによって生み出された悲しみを、ユウナはその目で見て、聞いて、感じてきた。

終わらせたい、今度こそ。
果たせなかった父の想い――――――

「私、がんばりますから……だから、ごめんなさい」

◆ ◇ ◆

船外へ通じる重い金属製の扉を開けて、ユウナは外に出る。
さっきの雷撃を起こした張本人、ルールーが心配そうな顔をしてユウナの元に駆け寄ってきた。
「痛めつけてやった?」
「ちょっとだけ」
照れ笑いを浮かべつつ、ユウナはルールーの後ろに居るキマリ……と、金髪の少年――ティーダに目を止めた。

(来て……くれたんだ)

どこかほっとして、ユウナは無意識に胸元で握っていた拳を解く。
ふと。
「……どうしたの?」
ティーダが顔を曇らせている事に気がついて、ユウナは不安になって声をかけた。
「オレ、スピラに来てすぐにアルベド族に助けてもらったんだ」
その口ぶりに、アルベド族を嫌悪する響きは含まれていなかった。むしろ、彼が助けられた時、その場ではぐれてしまったというアルベド族に対して安否を気遣ってさえいた。
(……本当に、キミはスピラ以外のところから……そう、ザナルカンドから来たんだね)
彼はスピラにあるエボンとアルベドとの確執を知らない。
アルベド族だと聞いて毛嫌いする人がこの世界にたくさん居る事も知らない。
中には、アルベド族はこの世から居なくなるべきだとはやし立てる人さえ、いることも。
(けれどキミは、エボンの人たちも、アルベドの人たちも、ううん、全ての人たちを……ありのままに受け止めてくれる。
何事にも囚われることなく)

もし私が、シンを倒したら。ナギ節がきたら。

スピラの人たち全てが、キミのように、なれるといいな。

キミのように、笑えるといいな――――――

◆ ◇ ◆

「いっそげ、いっそげー!!」
「まだ試合間に合うかな?!」
「今第二試合の最中だから、全力で走ったら間に合うッス!」
「うん! 急ごう!!」
人がごった返すスタジアムの門前。今度ははぐれないようにとティーダはユウナの手をしっかりと握っていた。
「ユウナ!! あそこ、取材陣がたかってるから、手、離さないように注意ッス!」
「りょ、了解です!!」
人々のざわめきで、怒鳴り合わないと互いの声が聞き取れない。かろうじて《あそこ》と《取材陣》という言葉を聞き取って、ユウナは前方にルカ・ゴワーズの取材陣が居るのを目に留めた。
「す、すごい人……」
「ユウナ、頑張れ」
せまるサポーターの熱狂的な応援に二人押しつぶされそうになりながら、選手以外立ち入り禁止の廊下になんとか滑り込んだ。
「ユ、ウナ……大丈夫ッスか?」
「な、なんとかー」
二人とも肩で息をしつつ、もみくちゃにされた服や髪を整える。
と。
手ぐしで髪を整えていたティーダは、ある一房だけ顔の方に掛かる形ではねてしまっている髪を、苦笑交じりに摘み上げた。
「ひぇー、こりゃどこかの召喚士様の寝癖よりひどいなー」
「あー、ひどいよ、そんな言い方」
上目遣いでふくれっつらになるユウナに、ティーダはいきなりぷっと吹き出して、げらげらと笑い出してしまった。
「?、え? 何? 何?」
「い、いや、ユウナも、ほらっ」
一房だけ違う方向にはねてしまっているユウナの髪を摘み上げて、ティーダは腹を抱えるようにして笑う。
「あ! ……あーもー、ひどいなー」
慌てて髪を撫で付けようとするユウナの手を握って、ティーダは丁寧にユウナの頭を撫でた。
その仕草は傍目から見たら、恋人同士が秘密ごとを語らうように……というよりは、妹を宥めている兄のように見える。
(なんか……おもしろくないかも)
ふつっと沸き起こったその不満も。
「よし、これで完璧ッス!」
しかし、ティーダのこの笑顔の前では萎んでしまう。
「さ、急ぐッスよ!」
「……うん!」
一緒に歩き出して、ふと。
ユウナはまだ、ティーダが手をしっかりと握っている事に気がついた。
もう周りにはサポーターの波は無い。手を握っていなければ離れてしまう状況ではないのだ。
(……うわぁー!!)
「そ、そ、そだね! い、急ごう!! うん!!」
急にかーっと頬が火照ったかと思うと、ユウナはまるで熱い鍋を掴んだ直後のように、ばっとティーダの手を離してしまった。
「ユウナ? 駄目ッスよ!」
(え?)
そのままずんずん歩き出していたユウナを、ティーダは慌てて追いかけて、またその手をむんずっ!と掴む。せっかく手を離したのにまた掴まれてしまって、ユウナは顔から火が出る思いでいた。
(ど、どうしよう……)
あまりの事に硬直して何も言えなくなってしまったユウナを、ティーダは首を傾けながらユウナの顔を覗き込む。
……どうやら、この様子をティーダは、困っている、と勘違いしたようだ。
「あ、えーと、そのー」
頭の後ろを掻きながら、それでもティーダは手を離さずにいた。
「さっきは、その、ゴメン!!」
「……え?」
言葉の意図がつかめなくて、ユウナは小さく首を傾げてティーダを見上げる。
「その、キマリがカフェにいたとき、喧嘩になってさ。
ユウナ、攫われた事、気づけなかった。
だから、ゴメン」
「あ……」
(そっか。ずっと気にしてたんだ……)
「……ううん。
私のほうこそ、ごめんなさい。
あんな時に指笛、吹かなきゃいけないのに……」
「いや、それはユウナの所為じゃないッス!
だって指笛吹けるまでは、はぐれないようにって約束、してたし。
それにオレ達、ユウナを守る為に居るのに、守れなくて、だから!!
……その、ゴメン」
しゅんっと肩を落とすティーダの顔を、ユウナは穏やかな表情で見上げていた。

(違うよ。謝るのは私の方。
私は……キミは来ないかもって思ってたから……。
だって、キミは……キミはガードじゃない。キミはザナルカンド・エイブスのエース。そして、ビサイド・オーラカを優勝へ導く英雄だから)

「だから今度は、絶対はぐれないように。
指笛が出来るようになるまで、手、握っとくッス!」
「………うん」

(私は……君に守られて、いいのかな?
キミの手は、英雄の手。
私を守る手じゃ、ない)

『オレ様がユウナちゃんのガードになってやるぜ』
『ユウナちゃんが心細いって思った時は指笛で合図しろよ』

「?、どうしたッスか?」
うつむいてしまったユウナを心配して、ティーダはユウナの顔を覗き込む。
「………私は」
「?」
おそるおそる顔を上げて、ユウナはティーダの両目を正面に見据える。
「私は、キミを呼んでも、いいのかな……?」
「………なーに言ってんスか!! 当然じゃないッスか!!」
震える声で問われた言葉に、ティーダは胸をドンっと叩いて答える。
「すぐに飛んでいく。そう約束したっしょ!!
ってあ、もしかして、オレじゃ役不足だって思ってる?
そりゃひどいっすよ、ユウ―――ナーーーーーー?!」
「……え?」
いきなり素っ頓狂な声をあげて、ティーダがあたふたとユウナの頬に触れる。その温かい感触にユウナは目を見開いた。
と。
ぱたっとティーダの手の平に落ちた雫に、ユウナ自身もびっくりしてティーダに握られていない左手でそっと目元をなぞる。
(……涙?)
まだ止まる気配も見せず、はらはらと後を追って涙が頬を伝っていく。
「ちょ、え、お、あぉぅ!!」
指で拭おうとして追いつかず、懐にハンカチが無いかを慌てふためきながら探すティーダの姿を見つめながら………ユウナはいつのまにか笑っていた。
「ごめん、ごめん! もう大丈夫だから!!」
強めに左手の甲で目をこすりながら、ユウナはまだ慌てているティーダに苦笑いを向ける。
「ね、ほらもう、大丈夫」
「………ほんとに?」
「ほんとに」
まるで叱られた後の子犬のような目でユウナの目を覗き込むティーダの顔がおかしくて、自然と口元が緩む。
そっか、私、キミを呼んでもいいんだ……。
「あのね」
「?」
「私、指笛、一生懸命練習する」
――――だから、呼んだら飛んできてね?
「了解ッス!!」
私も。
もし、キミがくじけそうになったら、その時は。

私も、キミの所に飛んでいく。

旅の間だけになるかもしれないけど、それでも私、飛んでいくから―――――
◆ ◇ ◆

「笑いながら……旅、したいんだ」
「もしダメそうな時は、指笛吹いて」
「そしたら私……飛んでいく」