ねずみになった男の話

いつものように席を立ち、いつものようにタイムカードに刻印をして、だれにともなく「お疲れ様」と一言残し、男は薄汚れた象牙色のドアをあけた。
「駒井さん、お疲れ様でした」と言葉が返ったのは、廊下に出てドアが閉まる寸前の事だった。

昨日、仕事で大きなミスをやらかして、上司から雷を食らった。
「なにやってんだ、このこまねずみ」とひどく罵られた。
ひとしきり怒鳴られた後、各方面への謝罪のメール。
今日はその立ち回りで忙しい一日を過ごした。
まるで本当にこまねずみになったかのように、くるくると各社へ移動しては頭を下げる日だった。
始末書を提出して、ようやくの終結は見えたものの、また明日から忙しい日々となる。
こんな時は早く帰って、寝るに限る。
男は帰り道を急ぐ人波に身を任せて歩いていた。

ふ、と。

ビルとビルの間から差し込んだ夕陽の斜光に視界を遮られ、男は手で目を覆った。
なんてまぶしい夕陽なんだろう。
男はゆっくりと夕陽の差し込むビルの隙間に視線を移して足を止めた。
灰色の雑居ビルに切り取られた四角い夕焼け。
逆行で黒くにじむビルの影の中で、紅に染まる空を反射するガラス窓。
黄昏時の夕焼け空は力強い輝きを放ちながらも、その姿はどこか物悲しく見える。

ふらりと。

男は夕焼けに向かって歩き出していた。
どこまでも続くビルの隙間を縫って歩いて。

歩いて、走って。

どれくらいの時間、走り続けただろうか。
いつの間にか目の前には黄金に輝くすすき野原が広がっていた。
紅から群青へとコントラストを変える空の下で、男はようやく、すすき野原の水平線へほぼ全身を沈めた夕日を見つけた。
爪の先程しか見えない夕陽が静かに沈んでいく様子を男は名残惜しげに見つめていた。

その日、男はねずみになった。

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日が暮れて。
男は辺りの景色が激変していることに狼狽した。
自分の背丈よりもさらに高いすすき。
いいや、その前にまず、ここはどこだ。
男はおろおろと辺りを見回し、そして自分の体がふさふさの毛でおおわれていることに気が付いた。
ぺたりと小さな手で顔に触ると、尖った鼻にぴんと長いひげ。そしてお尻には長いしっぽ。
まさか、と男は思った。
男は自分がねずみになっていることにようやっと気が付いたのだ。

これはいったいどういうことなんだ。

男は愕然としてその場に座り込んだ。
辺りはすっかり夜になっていた。
いつもならこんな暗い時間まで平気で働いているというのに、月明かりしかないすすき野原は恐ろしく、不気味だった。
遠くで聞こえる風の音がより一層恐怖と不安を掻き立てる。
不意に近くで、がさりと大きくすすきが揺れる音がして、男は「ひっ」と小さく声を上げた。
とにかく今は座り込んでいる場合ではない。
このままじっとしていたら何者かにじき襲われてしまう。
男は何とか自分を奮い立たせると、すすきの根元にもぐりこみ、身を隠すために穴を掘った。
己の身一つ隠せるだけの穴を掘りあげると、男はその窮屈な穴の中へ、自分の体を押し込んだ。

……どうかこれが夢であってくれ。

男はそう祈りながら、疲労でじきに深い眠りについた。
だが、夜が明けても、男はねずみのままだった。
日が昇り、また遠くへ沈む頃になっても、男はねずみのままだった。
男は暗い穴の中で嘆き悲しんでいた。
元の人間の姿に戻らないことに。
元の日常に戻らないことに。
そして、自分の姿がねずみであることに。
いくら自分のあだ名が「こまねずみ」だからと言っても、この姿に化けるのはあんまりじゃないか。
同じ化けるなら、もっと大きくて、強い獣になりたかった。
こんな小さなねずみの姿では、この穴から出ていくことすらできないじゃないか。
男はずっと嘆き続けていた。

 

ある日、男は気が付いた。
もう随分と穴ぐらの中にいるというのに、空腹を感じないのだ。
のどの渇きも全く無い。
最初はあまりの変化に気が立っているからだと思っていたのだが、どうも様子が違うらしい。
男は笑いたくなった。
ああ、やはりこれは夢なのだ。
こんなバカげた夢の中で、私はずっと怯え続けていたのか。

男は決意した。

この穴ぐらから飛び出そう。
飛び出してしまえば、きっとこの夢は醒める。
男は穴ぐらから身を乗り出した。
数日間ずっと見続けてきたすすきの穂は何も変わらずたゆたっていた。

大丈夫。これは夢だ。大丈夫。

男は四足でそろそろとすすきの茂みを掻き分けて進んでいった。

大丈夫。大丈夫だ。

だが、掻き分けても掻き分けても、すすきの茂みはどこまでも続いていた。

大丈夫。大丈夫な、はずだ。

男はだんだんと心細くなって、ふと後ろを振り向いた。
もう元いた自分の穴ぐらは見えなくなっていた。
途端、男は引き返したい衝動に駆られた。

これはほんとに夢なのだろうか。

すすきを掻き分けて進んでいるうちに傷ついて土だらけになった手がじわりと痛んだ。
このまま進んでもこのすすき野原に果ては無いんじゃないだろうか。
そもそもこのすすき野原を進んで行って、いつこの夢が覚めるのか。
そんな保証、どこにもないじゃないか。
気が付けば日はとうに中天を過ぎ、西の空へと傾いていた。
青の褪せた空が刻一刻と夕暮れ時を告げている。
今ならまだ夜になる前にあの穴ぐらに引き返せる。
今なら、まだ。
………いや。
男はため息をつくと、前に向き直って先に進むことにした。

穴ぐらの生活は、もううんざりだ。
それにこれが夢でなくても、ずっとねずみでいるのももう嫌だ。
何者かに襲われて死んでも、もういいじゃないか。
それが私の人生だというなら、もうそれで構わない。

このまま生き続けることがもう、男には耐えられなかった。

 

やがて、少し拓けた場所にたどり着いた。
目の前には山のように大きな一本の樫の木。
橙色に染まる西の空と、この樫の木が醸し出す深い影とのコントラストは、畏怖と荘厳の空気を感じさせた。
男は吸い寄せられるように樫の木の根元へと歩み寄り、言葉を忘れて見上げていた。

「……おまえ、新参者か?」

ふと頭上から声がして、男は声の方へ視線を移した。

「ひ、ひぃぃぃぃぃぃぃっ!!」

男は、頭上に現れた化け物の姿を見て、のどを裂かんばかりの悲鳴を上げた。
夕焼けの中でより一層燃え立つような赤い毛並に、
ぎろりと己を睨みつける同色の四つの瞳。
己を窺う獣の咢からは鋭くずらりと並んだ歯がのぞいていた。

「お、お助けをっ!私を食べても腹の足しにもなりませんっ!どうかお助けをっ!」

男は地べたに頭をつけて強く強く懇願していた。
死にたくない、死にたくない、と。

「……すまん、驚かせるつもりはなかったんだ。頼むから少し静かにしてくれないか。連れが目を覚ます」

獣は男をなだめるように囁いた。
困惑した表情で囁く獣に、男は両手で口をふさぐと、こくこくと大きく頷いた。
そこではたと、男は気が付いた。
横ばいになった獣の腹の上には、気持ちよさそうに寝息を立てて寝そべっている少女がいたのだ。
獣は労わるように少女の方に目を向けて、また視線を男の方へと戻した。

「ここには普段、他の獣が寄り付くことは無いんでな。一体何用でここに来た?」

厳つい見た目とは裏腹に、この獣の声音はとても穏やかなものだった。
男はほっと一息をつくと、ぺたりとその場に座り込んでしまった。
同時に、緊張していた力が抜けたせいか、男は知らずはらはらと涙をこぼしていた。

「すみません、すみません」

男はひとしきり言葉を繰り返した後、涙をぬぐい、ぽつりぽつりと話し始めた。
自分はしがない一介のサラリーマンで、ある日の会社帰り、ふと夕焼けに向かって歩いていたこと。
気が付けばこのすすき野原にいて、自分はねずみになっていたこと。
どうしていいかわからず、ずっと穴ぐらに隠れていたこと。
だが耐えられず、穴ぐらから飛び出してここまで来たこと。

「私は、一体何の間違いでこんな世界にやってきたのでしょうか」

男の言葉は愚痴に近くなっていた。
だが吐き出さずにはいられなかった辛かった。
この数日の孤独が。
恐怖が。
閉塞感が。
とても、とても辛かったのだ。

「どうして、私はこんなみすぼらしいねずみになったのでしょうか。
あなたのような強く大きな獣になれたらまだ良かったのに。
そうすれば、こんなに周りにおびえてびくびく過ごす日々もなかったでしょう」

男は獣がうらやましいと感じていた。
憤りすら感じていた。
偉大な獣。
矮小な自分。

「正直、この世界はまるで私を嘲笑っているかのように感じます。
私をこんなねずみの姿に変えて、私が不幸でいることを楽しんでいるようにすら感じます」

なんて、なんて意地悪な世界。

「……この世は、人の世と同じ。いつも俺達を試し、嘲笑っている。
かつての俺も同じように思っていた」

ぽつりと。
獣は遠くを見つめて呟いた。

「今だってそう、試されていると思うときはある。
いつだって、そう、試されているのだろう。
俺はいちいちそれに腹を立て、牙をむいてばかりいた。
だが、それと真に向かい合って、初めて一つ、得られたものがある」

獣は穏やかに寝息を立てている少女に目をやった。

「俺は無為に、お前がここに来たとは思えない。
きっと何かを試されているのだろう。
ここは強い望みを持つものに一度だけ姿を見せる、朧世の永芒原。
お前は何かを望んでこちら側に来たはずだ。
お前の望んだものはなんだ?」

望みなんて、なにもない。
男はそう口にしかけて。

ざわりと。

すすき野原を強く揺らした西風に男ははっとなって、まぶしく輝く黄金の水平線に目を向けた。

そこには。

「……ああ、そうです」

煌々と燃える大きな夕日が今、黄金の水平線に身を沈めようとしていた。
世界が一斉に鮮やかな紅に染まる。その中にいてなお赤さを失わず、その姿は雄大で。

「私、こんな夕陽が見たかったんです……」

知らず、男は涙していた。
伸ばした小さな掌は光に吸い込まれて見えなかった。
何物にも遮ることなどできない、神々しい輝き。

「あの日……この世界に来た、あの日。
私、久しぶりに夕焼けを見ました。
小さい頃はしょっちゅう見ていたんですけどね。
でも仕事をするようになってからは
ほぼ毎日夜遅くまで残業で、夕焼けなんてまともに見ることすらなくなりました。
あの日見た夕焼けは、ビルに切り取られた四角い夕焼けで……。
仕事で大きな失敗をしたせいでしょうか。その姿があまりにも侘しく見えて。
あの夕焼けの根っこにあるはずの夕陽を、私、見たくなったんです。
この世界にたどり着いたとき、夕陽はほとんど沈んでいました。
だから、こんな夕陽を、見たいと思ったんです。
何物にも遮られない夕陽を」

男は、とても穏やかな表情で夕陽を見つめていた。

「なんて平凡なものを私は欲しがっていたんでしょうか……。
でも、こんなにも心が満たされたのは、本当に久しぶりです。
最近……いや、今の仕事に就いた時からでしょうか。
やっとのことで得た仕事は苦手な営業。つき合いの上手な人がどんどん自分を追い越していく。
頑張っていたら、なんとかなる。そう自分に言い聞かせながらも心は疲弊していくばかりでした。
いつのまにか、せかせかと頭を下げる癖がついて、ついたあだ名がこまねずみ。
まさか本当にねずみになる日が来るなんて、思ってもいませんでした。
ねずみになって散々だと思っていましたけど……こんな身だからこそ、今、この夕陽の雄大さを全身で感じることができる。
これからこんな夕陽を何度も見ることができるんですね」

そう思うとねずみになったことも悪いことだとは思わなかった。
男は流れ伝っていた涙を払うと、獣に向かっておじぎをした。

「私の愚痴を聞いてくれてありがとうございました。
とても安らかな気持ちになれました。
私、そろそろあの穴ぐらに戻ろうかと思います。
……もしよかったら、これからもこちらにお伺いしてよろしいでしょうか?」

獣は男の申し出にただ穏やかに目を細めて応えた。
笑ったのだろうか?

「じき、夜になる。気をつけて帰れよ」

獣の言葉に、男はもう一度深くおじぎをして、穏やかに微笑んできびすを返した。
男の心はとても晴れやかだった。
鬱蒼と茂ったすすき野原をかき分けて進むことさえ、もう苦とは思わなかった。

そうだ。
あの穴ぐらに戻ったら、もう少し大きく穴を掘り広げよう。
周りのすすきも刈り取って、もっと住み良い場所にしよう。

希望に胸を躍らせて、男は意気揚々とすすき野原をかき分けて進んでいた。

……瞬間。

ギャアギャアギャアッ!!

すすき野原に隠れていたのか、けたたましく鳴いて飛び立つカラスの声に、男はびくりと身を縮ませた。
驚いてぎゅっと堅く閉じていた目を恐る恐る開けてみると。
目の前には、鮮やかな紅をこぼす彼岸花が咲き乱れていた。

「………ここは?」

しばらく放心していた男は、ふと自分の腕に見慣れたチタンの腕時計が巻かれていることに気がついた。アナログの秒針は無表情に時を刻んでいる。
ぺたりと頬に手を当ててみると、ざらりとした堅いヒゲの感触。
全身を見回すとくたりとしたYシャツのスーツ姿。

戻ったのか。

途端、男ははらはらと涙をこぼした。

どうして。

せっかくあの新しい世界で生きていこうと決めたのに。

どうして。

やはり、世界は意地悪だ。
私を不幸にして面白がっている。

「………いいや」

男は、気がついた。
落ち込み、うなだれた男の影にすっと差し込んだ、赤い日差し。
見上げれば、先ほどまで自分がいたあの世界で見たものと寸分違わず美しく輝く赤い夕陽が向かいの山へと沈もうとしていた。

この山は、実家近くの奥野山。
そうだ、ここは、ふもとのたんぼのあぜ道。
遠くに見える寂れた駅舎。
実家を出たきり、ここも久しい。

「おまえの望んだものは何だ?」

ふと、獣に問われたことを思い出す。

夕陽が見たかった。

……どうして、夕陽が見たかったのだろう?

どうして?

「……私は、昔からとても鈍くさい子供でした。
取り立てて光る才能もなく、かけっこだっていつもびり。
よく泣いて帰ったものです。
でもね。
ある夏の夕暮れ時、泣いて帰った私を見た祖母が夕陽に向かって手を合わせいたんですよ。
日照り続きで農家は慈雨を願うそんな時期、祖母はなんて言って夕陽を拝んでいたと思いますか?

本当はおしめりがほしい頃だけど、
この子は明日もかけっこをがんばるだろうから、
明日もこの子ががんばれるように、
どうぞ、どうぞ、お天気にしてください。

当時の私はなぜそんな意地悪なお願いをするのか、毎日雨になればいいのにと怒っていました」

ああ、今、やっとその言葉の意味が分かった。
今になって、ようやっと。

男はふと、後ろを振り返った。
そこにはもちろん誰もいない。
ただ夜風に揺れる彼岸花がそっと笑うように揺れているだけ。
そう、あの紅の獣が見せた穏やかな笑顔のように。

男はYシャツの袖で流れ落ちいてた涙をぐいっと乱暴に拭いあげた。

「大丈夫。私はまだ、がんばれる」

後に。
定年を経て、風景写真家となった駒井啓介氏はこう語る。

私がねずみと呼ばれていた頃、私の周りの世界はとても窮屈だった。
だがねずみになってみて、はじめて世界の広さに目を向けられるようになった。
自分が世界を窮屈に見ていたのだと思い知らされた。
私はねずみでかまわない。
今も心からそう思っている。
ただ、今一度願いが叶うなら。
もう一度ねずみになって、私を原点に立たせてくれたあの場所へ行きたい。
あの日夕焼けを一緒に見てくれたあの人に、今度は愚痴ではなく、心から感謝を述べたい。
夕陽を通じて、私の世界は広がった。そのつながりをあの人に伝えたい。
だから私は今も夕焼けを写真に納め続けているんだ。

 

 

あとがきのようなもの

こちらは絵本「えぼうはらのけもの」を発行してから約1年後に無料配布本にて頒布した作品になります。
本編のその後のニュアンスで、リア獣なけもの達を書きたくなって(^^;)
本編のツンデレワンコを知っている人からしたら、「このリア獣め!爆発してしまえw」と言っていただけるようなお話にしたつもりですが、いかがでしたでしょうか?

単品でも読んでいただける仕様をがんばったつもりですが、単品で読むと、リーマンさんが卑屈に自分を語っているお話になっているのがなんともはや…な感じなのですが。

多かれ少なかれ、人には必ずコンプレックスがあって、それと向かい合うのは本当に苦しいですね。
けれど、その感情をどうか醜いと嘲らず、向かい合っていただけるとこれ幸いなのであります。
本編でも、この掌編でも、お話を通じて少しずつ伝えることができていたらいいのですが。
いやはや、まだまだですなぁ(^^;)